2014年04月08日

旅するように恋するように本を読む (3)

『世に棲む日日』(全4巻)司馬遼太郎著 文春文庫

 来年の大河ドラマの主人公が松陰先生の妹になると聞いて、本棚に入れたまま長いこと読みそびれていたこの本を手にとり、一気に読んだ。
 山口県山口市で生まれ育った。
 小学校5年生のとき、ある調査の「尊敬する人」を書く欄に、迷わず「吉田松陰」と書いた。とにかく萩の偉い先生で、この人の弟子が何人も総理大臣になったと理解していた。こういう感覚は、私だけでなく山口の小学生の当たり前だったと思う。
 尊敬する松陰先生の生涯について、とくに三十歳という若さで罪人として処刑されたことなどを驚きとともに知ったのはもう少し大きくなってからだったと思う(削除)。
 そのとき、正しいかどうかの基準というのは、時代によって変わることがあることを思い知らされた気がした。だから、世間や時代のものさしに合わせるのではなく、広い視野をもって、物事を考える大人になりたいと強く思った。
 この小説は、吉田松陰の幼少時代から始まり、旅により、多くの師や友と出会う日日を経て、松陰の死。その後、主人公は愛弟子である高杉晋作に変わり、明治維新前夜の激動の中、唐突とも思える晋作の病死の場面で終わる。晋作の生涯も「二十七年と八ヵ月」でしかなかった。
 もちろんあくまでも小説として読まなくてはいけないのだが、それでも「きわめて凝縮された老年を送った」ふたりと、その周辺の人々の生涯には、圧倒される。
 幕末とは、それまで藩という小さな単位で物事を考えていた人々が、世界の中の日本という見方をせざるを得なくなった時代であり、そのときの混乱と迷いと、熱さとが、この小説を通底している。

 今、私達はどういう単位で未来を思い悩んでいるのだろうか。読み進めながら、私よりもはるかに年下になった松陰先生と晋作から、まっすぐな瞳で問いかけられているような気持ちを何度となく、味わった。

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2014年03月24日

旅するように恋するように本を読む (2)


『歴史をつかむ技法』山本博文 著・新潮新書

 第一線で活躍する歴史研究者が、門外漢に向けて、歴史学とはどんな学問なのかを紹介しつつ、歴史とつき合う上で欠かせない考え方について教えてくれる一冊。
  奈良に暮らし始める前は、まさか自分が奈良のことを紹介する記事を書いたり、社寺などの案内講座をやるようになるなんて思いをしなかった。
ずっと日本史が苦手だった(世界史ははっきり言って嫌いだった)私には、「この一冊で日本史の流れをわしづかみ!」という惹句がたまらなく魅力的に思えて手にとった。
 新書らしく、わかりやすい言葉で具体的な説明が続き、とても読みやすい。
 これまでの知識が揺すぶられる記述も多い。例えば、「鎌倉時代に幕府はあったか」と問われ、学生時代には「イイクニつくろう鎌倉幕府、と習ったのに・・・」と戸惑いながら読み進めると、「幕府」という言葉自体が江戸時代末期まで通用しておらず、鎌倉時代には「関東」とか「武家」などと呼ばれていたとか、「藩」とか「鎖国」という言葉も後の時代から考え、便宜上そう呼んでいるだけであって、当時の人々がこのような言葉を使っていたわけではないというのだ。
 また、「歴史にはその時代固有のルールがあり、現代の感覚で安易に過去を見ないことが大切です」という作者の言葉は、当然のことではあるが、多くの人が、特に歴史愛好者ほど忘れてしまいがちなことではないだろうか。
 歴史における「法則性の有無」や「歩みと進歩の違い」についての指摘にも共感できたし、きちんと整理できていなかった「時代区分」と「文化史の時代区分」の記述はこれからも重宝するはずだ。
 「歴史的思考力とは、現代に起こる事象を孤立したものとしてではなく、『歴史的な視野の中で考えていく』ということ」。本書の結論を肝に銘じながら、これからも奈良の歴史、日本の歴史を学んでいきたいと思う。
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2014年01月16日

旅するように恋するように本を読む (1)

『悪党重源』橋直樹 著・文藝春秋 刊

 「重源さん」と奈良の人が親しみを込めて呼ぶのは、鎌倉時代、東大寺の再建を果たした重源上人である。東大寺に有名な坐像がある。心持ち前屈みで、お数珠を持ち、顔には深い皺が刻まれていて、何よりこちらを見据えるようなまなざしが心に残る。
 大仏殿は残念ながら再び焼け落ちることになるが、南大門は重源の手腕を今に伝える。奈良に住むようになり、何度南大門をくぐったことだろう。高く重なる天井を仰ぐたび、あの何かを悟ったのではなく、挑んでいるようなまなざしを思い出していた。頼っていけば温かく受け止めてくれるようなお坊様とは何かが根本的に違うまなざしを。
 だから、この本のタイトルを見たとき、「悪党」の二文字に驚きながら、どこかあの鋭いまなざしにつながるキーワードに思えて、手に取らずにはいられなかった。
 重源の幼少時代から晩年までを緊張感を持って描くこの作品は、もちろん小説ではあるのだが、平安末期から鎌倉にかけての時代の流れと、重源さんの実際のプロフィルとが物語の縦糸として組み込まれているので、とてもリアリティがあり、あっという間に読み切ってしまった。
 17歳で親の仇を討つはずが、源氏の棟梁の身内を殺してしまうという過ちを犯したことで、すべてを捨て、悪党すなわちアウトローとして生きていかざるを得なくなった若き重源は、一貫して情報をかき集め、その情報をもとに常識にとらわれない戦略を実行し、生死を分かつ危機を乗り越えてゆく。
「油断するなよ。常に心を研ぎ澄ませておけ。周囲への目配りを忘れるな。やりなおしがきかぬのが、この世界だ。しくじるんじゃないぞ」。
 四国に渡り、曼荼羅寺の住持に買われた重源が、同輩から言われた言葉である。 
 断食をしたり、滝にうたれたりするのとはまったく異なる現実社会での試練。その連続こそが、彼のまなざしをあんなに鋭く磨いていったのだとすればとても納得がいく。
 繰り返し襲いかかる危機を乗り越えた重源だからこそ、60歳を超えた身で東大寺の鎌倉再建という途方もない大事業が成し遂げられたのだということも。
  この小説は、重源がたからかに唱える「南無阿弥陀仏」で幕を閉じる。重源を描きながら、仏教という宗教の途方もないほどの懐の広さが重低音のように響いてくる一冊だと思った。



posted by アルカからのお知らせ at 11:30| Comment(0) | 書評